居合・古武道

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独り言:第八回居想会演武会より 2014.6.15

「武術は鎮国の要であり」から始まる無外流真傅剣法訣には、江戸時代の侍の心意気が感じられます。
 無外流は戦国に生まれた流派ではなく、泰平の江戸時代に生まれ発展した流派です。それでも武術は武士にとって自分や主君を守るために、そして国家安泰の ために必要な素養のひとつでありました。そして刀は武士を象徴するものだけではなく、必要に迫られれば武器としていつでも使う覚悟の元に腰に帯びていたの だと思います。命のやり取りをするのであれば、まずは相手を打ち負かすことが目的であり、そのための技術と気力が大いに必要であったでしょう。
 ひるがえって、問題の解決や名誉のために武術を行使することにリアリティのない現代の私たちにとって、武術とは文化として教養の枠組みで稽古することが できます。ここでの大きな違いは、強さを求めることでもなく敵をたおすことでもありません。暴漢に襲われたときに最低限護身する心得を会得することはでき るでしょうが、それが目的ではありません。
 相手を倒すことが最終的な目的でない以上、技の研究は身体運用に重きをおいて学ぶこととなります。居合に限って言えば如何に相手より速く剣を抜き、制す るかが稽古の要諦です。そのための身体運用と操刀の極意を学びます。江戸時代の武士も目指すところは同じであったでしょうが、権謀術数をめぐらすことなく 純粋に技に打ち込むことができることが、平和な日本を生きる私たちの特権でもあります。
 また、古武術の稽古では身体の向上とともに学ばなければならない大切なこともあります。それは古来日本人が持っていた武士道精神に従った心を育むことで す。居想会には外国からの会員もおりますが、その心を理解することが日本を知る上で大切なこととなります。
 新渡戸稲造の「武士道」では武士道の一側面を「避けることのできない運命に冷静に服従する」と定義しています。礼節守り運命に従いその中で尽くし、誠に徹するという武士道精神を尊ぶ心をもって稽古を行うことが、身体を育むと共に肝心なことだと思います。


第八回居想会演武会・冊子序文より:関戸光賀