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辻月丹資茂 (七十九歳)
享保十二年三月 狩野寒竹画
土佐山内家宝物資料館所蔵
無外流剣術演武
居想会では、無外流剣術を稽古しております。
無外流剣術には姫路藩の高橋家に伝わるに刃引之形5本が残されております。また、本来の剣術形でとしての十剣秘訣は、伝書として残っていますが、詳しい動きについての記載はありません。居想会ではこれらについて研究を重ねるとともに、その成果を剣術の稽古に生かしております。
剣術は二人一組で稽古を行いますが、剣道のように勝負をするものではありません。剣術の稽古では、上級者も初心者も互いに剣を合わせる事によって、できる事できない事を学び合う世界です。
また、強い弱いでもなく、何を学ぶかがテーマですので、年齢、性別に関係なく稽古を続けてゆけるのも古武術としての剣術の特徴です。
慶安元年(1648年)近江甲賀郡(滋賀県)の郷士の次男として生まれ、万治三年(1660年)月丹十三歳の歳、京都に道場を構える山口流剣術の門を叩いた。山口卜真斎に学ぶこと十三年。皆伝を許されたのは、延宝二年(1674年)月丹二十六歳のときであった。その後、麹町に道場を構えるにいたった。
剣技を追求する月丹の身形体裁は粗末であったようだが、愛宕山において荒行を経て心身を鍛錬した気迫は、相当のものがあったのだろう。エピソードが現在でも幾つか残っている。
また、「剣禅一如」の道を目指し麻布の吸江寺に参禅すると、石潭禅師を師として、日夜己の剣境を模索するようになった。また、石潭禅師が後を託した神州禅師より偈(げ)を得た。
無外流については小説「剣客商売」や映画「雨あがる」などでご存知の方もいらっしゃるかと思います。小笠原佐渡守長重、酒井雅楽頭忠拳、山内豊房など錚々たる大名、小名三十数名の他、直参百五十余、陪臣九百数十名もの門人を数えたことから、有力道場であったことが偲ばれます。
当初、剣術だけであった無外流は、自鏡流居合(多賀自鏡軒盛政が祖)より居合を取り入れたのが、無外流居合の始まりです。従って無外流居合は正確には自鏡流居合ですが、無外流剣術の指南役が指導するため、一般に無外流居合と称していました。 その後自鏡流居合は六代で後継者が絶えたため、自鏡流居合は無外流の中で受け継がれてゆきました。
明治の時代、東京では無外流は途絶えてしまいましたが、三代都司文左衛門の時、姫路藩士の高橋八助充亮と高橋達蔵充玄が無外流を学び、姫路藩へと伝わったものが無外流高橋派として残り、明治の時代には高橋赳太郎へと継がれていきました。赳太郎は、警視庁の撃剣世話掛となり、高野佐三郎、川崎善三郎とともに「三郎三傑」と称されていました。その後赳太郎は神戸に戻り道場を開き、そこで指導する傍ら、周辺の警察署や神戸高等商業学校(神戸大学の前身)撃剣部(剣道部)の指導を行っていました。
赳太郎の死後、赳太郎の子である高橋秀三が無外流を継承しました。
居想無外流とは、途絶えてしまった江戸無外流を再編、研究する目的で作られた流派です。居想無外流は、失われた形の剣理を創意と工夫により再現し、先人が死生観として導きだした万法帰一の心と業を求め追求してゆくことを活動の原点としており、現在の稽古においては、通常の形稽古の他に、無外流に伝わる「刃引きの形」、そして無外流居合の基となった「自鏡流居合」の形を研究しています。
私達は、江戸時代の武士が残した形について、何を伝えたかったのかを理解し知る事、そして、それを多くの人に伝承していく事が最も大切であると考えています。